新菊舎慕情 51
   泉ほど(はな)しも(わき)ぬ夕涼        傘狂
 
   わすれぬ山に夏は忘るゝ     菊舎    『美濃・信濃行』
 江戸行きの途次の寛政5年(1793)七夕の頃、ふたたび美濃の大野傘狂邸を訪れた菊舎は、隠居した師と庭の花(おうち)を愛でながら、付合や合作などし心ゆくまで楽しみました。師弟の縁を結んで12年間、変わらぬ師の慈愛に暑さも忘れる彼女でしたが、傘狂には疲れが見え、これが最後の別れとなったのです。
この年の12月17日、傘狂は67歳の生涯を閉じました。旅先で訃報を聞いた菊舎は、(たもと)が凍りつくほど驚き悲しみました。
 旅の帰路、傘狂の墓に詣でた菊舎は、傘狂の息子路悠と短歌行を巻き
   むらさきの雲にうつらふや花樗  菊舎
と、やさしかった師を偲びながら詠みました。
 これは、「追善弔(とむらい)古々路(ごころ)」として上梓され、現在、天理大学附属天理図書館に所蔵されています。
合作        七夕笹の図      菊舎画
ひとりそっと 琴を弾じて ほしむかえ  傘狂句
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新菊舎慕情 52
   ひとりそっと琴を弾じてほしむかえ        傘狂
 師傘狂と合作した菊舎の七夕笹の絵は、繊細な筆遣いで見事ですが、私が注目したのは、ここに詠まれた傘狂の掲句です。句中の「ひとりそっと琴を弾じて」いるのは、菊舎と窺えるからです。この後、江戸に行った菊舎は、木工屋作左衛門から七弦琴を作ってもらい、鹿児島藩士の菊地東元に弾琴の手ほどきを受けています。魂を揺さぶるような七弦琴の響きに、完全に魅せられた菊舎は、作ってもらった七弦琴を携え美濃を再訪、そして、京都へ。ここでは、前右大臣西園寺賞季から七弦琴に「流水」という銘を賜り、中村宗哲に漆工を依頼して、平松中納言に弾琴と華音の教えを乞いました。平松公は菊舎の弾琴を聞いて、伊勢の永田蘿道を紹介。そこで、菊舎はひと月ほど弾琴の修行をしました。
 一笠一杖に頭陀袋というこれまでの行脚姿に、新たに七弦琴(一メートル強)が加わることになり、菊舎は、美濃派俳人の枠を越えて、文人へと変貌していくことになります。
七弦琴
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新菊舎慕情 53
   牡丹見て諸越近ふ旅だちぬ      『墨摺山二』  
 菊舎は、女性旅行家としても江戸期随一と言われるほど、生涯の大半を旅に明け暮れました。彼女自身、一年先はどこに居るのか想像もつかないほど、諸国を行脚していますが、それぞれの旅は確固とした目的をもってなされていたのです。掲句の「諸越」とは、中国を指していて、当時、そこに最も近いのが長崎でした。
 寛政八年、菊舎四十四歳の九州行きは、主に弾琴や華音や漢詩を学ぶための旅であり、長崎の唐人村に住む清の儒者とも交流し、直接教えをうけていることからも、なみなみならぬ向学心がしのばれます。彼女のあまりの熱心さに、唐の衣や明服を仕立てて贈ってくれる人もいました。これらを着た菊舎の姿を想像するだけでも愉快になります。
 寛政十年の端午、長府に帰るまでの約二年間、長崎や佐賀の人々と風雅の世界に没頭した菊舎でした。
旧唐人屋敷門(長崎 興福寺)
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新菊舎慕情 54
   うきわれを照せ昔の秋の月      『手折菊』  
 菊舎、四十六歳の秋、嫁ぎ先であった田耕中河内の村田家を訪れ、
  余自為未亡人 東西漫遊既己二十年矣 
  今茲戌午之秋偶 訪舅家 聊賦此述懐二首
として、漢詩二首と前掲のを残しています。
その大意は
「二十年この方、世をのがれて風雲の誘うがままに旅をして、独り杖をひき、懐かしい昔の婚家を訪ねた。松も垣根の菊も昔のままだが、人は黒髪が白くなり、亡くなった人もある。ただ、新緑の竹だけが荒涼としなって、憂いきわまりない」
二十四歳の昔、夫利之助を失い茫然としていた彼女を、優しく励ましてくださった舅や姑の姿も今はなく、ただ立ちつくす菊舎でした。
それから、生誕地の人たちと俳諧や漢詩の贈答
などして、萩へ向かい、寛政十一年の正月、素信尼らと筆をとり、寛政十一年の正月を迎えた様子が刷物に残っています。
「刷物」 長州萩  おりからぞ松に霞の一ト刷毛も
                     尼 一字庵菊舎
蕨市歴史民俗資料館提供
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新菊舎慕情 55
   海にむかふこゝろや直に初手水(はつちょうず)      『手折菊』  
 寛政十年の暮から数年間、菊舎は萩に滞在します。毛利宗藩のこの地は、美濃の傘狂へ添書きを書いてくれた竹奥舎其音をはじめ、知人の藩士や俳友も多く、住まいを提供する人が幾人もいました。その中のひとりが、八谷直人(聴雨)といい、椿東の護国山東光寺の上に別荘をもっていました。ここは、萩の城下を一望する見晴らしのよい高台で、日は唐人山に昇り、月は指月山に傾き、真向かいに日本海が臨めるという景勝地です。菊舎は、この別荘を「樹々亭」と命名し、長い間逗留しています。掲句は、「樹々亭」で詠んだ清々しい正月の一句です。
それから三十年後、この「樹々亭」で吉田松陰は産声をあげ、幼児期を過ごしたというから驚きです。
 それにしても、田上菊舎と吉田松陰は、みはるかす海にどんな思いを馳せていたのでしょうか。
吉田松陰生誕地(樹々亭跡)
萩市椎原(通称・団子岩)
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新菊舎慕情 56
   照らしてよ末の世かけて盆の月        
 萩滞在中の菊舎の許に、思いもかけぬ弟・多門次(俳号・一陽居今始)の訃報が届きました。寛政12年(1800)5月11日、大坂の藩邸で横目役をしていた32歳の弟が、事もあろうに自害して果てたのです。仕事柄なんらかの事情があってのことと思われますが、愛する弟を失った菊舎の悲しみは如何ばかりであったでしょう。天満東寺町の浄土宗大鏡寺に葬られ、今勝院一陽現冶居士の名が与えられました。
 当時は筆も持てなかった菊舎ですが、文化8年 (1811)7月、大鏡寺へ年々の盆供養灯籠料として、水墨書画50枚を寄進しました。しかし、残念なことに大鏡寺は昭和20年の戦火で焼失、現在、吹田市に移転しています。
後年、菊舎は甥の椋梨麗宇が藩士として初めて江戸に旅立つとき、弟と同じ悲劇を再び繰りかえさないようにと
うけて習へいかなる鞭の柳をも
のはなむけの一句を与えて送り出しています。
「照らしてよ」句書
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新菊舎慕情 57
   つもるほどふかきみどりや雪の竹        
 菊舎は弟の亡くなった翌年の享和元年(1801)、大坂堀江の酒造家で博学多才な町人学者の木村蒹葭堂を訪問していたことが、近年わかりました。それは、蒹葭堂が克明に記していた『蒹葭堂日記』の十月二十八日の欄に
「菊舎 川井立斎案内ニテ来」と、あるのが発見されてわかったことです。この記載により、これまで不明であったその年の菊舎の動向が明らかになりました。蒹葭堂は本草学にも精通し、膨大な奇書珍籍・骨董や資料の蒐集家でもあって、多くの文人墨客が彼の屋敷を訪問し、一大文化サロンのようであったといいます。蒹葭堂六十六歳、菊舎四十九歳、ともにマルチ文人として世に名を馳せていたふたりが出会い交流していた事実は、菊舎調査に拍車をかけました。
前掲句の前書に、
重ねて木村老先生を訪ねて
とある一幅を見たことがあります。谷文晃筆の蒹葭堂邸図にも竹林が描かれていることからも、この俳句は菊舎が蒹葭堂邸で詠んだものと想像されます。
谷文晃筆 蒹葭堂邸図
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新菊舎慕情 58
   をしてるやなにはの浦のたまがしは
      玉ひらふべき道教へてよ 
 『蒹葭堂日記』により、菊舎を蒹葭堂に紹介したのが川井立斎と知って驚きました。大坂で川井と云えば歌人で、菊舎に和歌を教えた歌仙堂肖翁こと川井江隠がいます。彼が岸根今宮に歌仙堂を築いたとき、菊舎に「ここを定宿にしなさい」と勧めているほど親しく、二人の書簡や和歌などたくさん残っていて、前掲の歌の前がきにも
かさねて川井先生に和歌のみち尋ねまつりて
とあります。しかし、彼の詳細は不明でいろいろ調べた結果、別号を立斎・不関とも云い、医者であったこともわかりました。持病のぜんそくに苦しんでいた菊舎は、旅の先々で医者にかかっているのですが、ここ大坂でも川井立斎の庇護のもとに、安心して逗留していたことがわかりました。
このように交流人物の書きものから、長い間不明だった菊舎の動向がつかめたことは大変うれしく、愛弟の一周忌にあたる享和元年(1801)は、大坂へ出向いたことがお蔭さまで立証されたのです。
菊舎書留
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新菊舎慕情 59
   月に花に戸ざゝぬ関の往来(ゆきき)かな      『手折菊』
  享和3年(1803)菊舎51歳の秋、長府藩第十一代藩主毛利元義に召され、前田の藩主別邸閑習庵(のち前田砲台)において、絵師文流斎と「前田二十勝」を合作しました。関門海峡を見はるかすそれぞれの景に、文流斎は絵をかき、菊舎は漢詩と俳句をつけ、19歳の藩主を大いに喜ばせました。
 関路行人
  一雨洗風塵  千山秋色新  
  関門今不鎖  驛下幾行人
   月に花に戸ざゝぬ関の往来かな

 赤間急灘

  白雪霏々(ひひ)夕  赤間響急灘
  金波(そそぐ)危石 玉兎走雲端
   初雪になるか赤間の(なだ)の音

この他、船嶋(巌流島)群鴎、引嶋(彦島)釣舟などの十八勝があります。
 後年、閑習庵を訪れた薩摩藩主島津重豪(しげひで)は、この「前田二十勝」を見て、非常に賞賛したということですが、現存しているのでしょうか、筆者は未だ目にしたことはありません。
閑習庵跡から眺める関門海峡
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新菊舎慕情 60
   天目に小春の雲の動きかな      『手折菊』
  関門海峡の佳景を望み「前田二十勝」の合作を終えた菊舎は、まもなく九州へ渡りました。十月一日、別府の観海山にのぼり、湧き出る湯口を茶釜として、岩間に物を敷き、口切りの茶客を招きました。
 小春の雲が、色濃く天目茶碗に映り、風に吹かれる雅興に、掲句が生まれました。
 菊舎が、いつも俳諧のよすがとしていた北宋の儒学者、程顥(ていこう)の漢詩に
  道通(みちはつうず)天地有形外(ゆうけいのほか) 思入(おもいはいる)風雲変態中(へんたいのうち)
(訳)わが歩む道は、天地万物のほか、
   無形の精神界に通じているので、
   現実にとらわれることはない。
   風に吹かれて、形をさまざまに変える
   流れる雲のような心でおればよい。
という一節があります。
 
茶道具に凝るでもなく、大自然の中で、自在に悠々と茶を楽しむ彼女の姿が目に浮かぶようです。
まさに雲遊の尼と呼ぶにふさわしい、別府での菊舎の一句です。
別府温泉
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新菊舎慕情 61
   ひかで遊ぶ子日や千代の松原に      『手折菊』
  別府の観海山で茶筵を楽しんだあと、日出(ひじ)へ移って享和三年(1803)11月まで滞在します。12月には篠栗から九州博多へ歩をすすめ、儒医亀井南冥や、その弟の曇栄(幻庵)らと親しく交流しました。菊舎が弾く七弦琴を夜更けまで聴くこともあった南冥は
  首春夜雨懐菊教尼在博多
      享和四年一月雨の夜、懐かしい菊舎尼は博多に在り。
      ~菊舎は弾琴、南冥は作詩~

  菊教尼之在博多余以詩問慰
  次韻見謝
  詩佳甚有刮目之歎畳韻却寄

      私は詩を以て菊舎を慰め、菊舎も次韻し作詩。
      その詩は目を見開く程佳く、また畳韻して返した。

と記しています。
2月、年号は文化となり、太宰府に移った菊舎は、管公の廟に詣で梅見。
  その香かよふ軒端もちかし梅の風
と詠んでいます。また、3月には延寿王院の霊泉主翁に迎えられ、茶を賜わりました。
九州遊歴中の菊舎は雲華をはじめ、たくさんの文化人と交わり、風雅な世界にどっぷりと浸かるのでした。
亀井南冥全集より「甲子稿」
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新菊舎慕情 62
   けふは茶の友待得たり月思亭      『手折菊』
 文化元年(1804)4月、熊本の村井琴山(椿壽)を訪ね、半年間この地に逗留します。
琴山は藩の医学校再春館を創設した村井見朴の子で、父の死後、京に上って山脇東洋や吉益東洞に医を学び、帰郷して数百人の門下生を育てつつ七弦琴にも通じ、儒家や漢詩人としても名高い人でした。
 島崎にある琴山の別荘叢桂園は、200坪の土地を有し、庭には揚子江、洞庭湖を模した池があり、泉水の流れに沿って緑草が植えられ、流れの終わりには茶室月思亭が架け渡されていました。堂屋の西の庇には朱の欄干があり、石の机を置いて七弦琴の琴机にしていたといいます。滞在中の菊舎の許に自慢の琴を携えて来る珍客もあり、ここで菊舎も弾琴しました。
 多くの文人墨客が訪れては茶や七弦琴を楽しんだ叢桂園は、現在、住む人もなく寂れていますが、当時の面影が随所にしのばれます。菊舎は『手折菊』風の巻に、漢詩と俳句で「叢桂園十二景」を記しています。
 叢桂園入口  筆者 (2007年5月29日)
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新菊舎慕情 63
   あそびきてはまた蓬莱に年籠      『手折菊』
 文化元年(1804)12月中旬、筑紫の旅から帰郷した菊舎は、両親の無事を喜ぶ掲句を詠みました。そして、久々に故郷で正月を迎え、書初めなどして賑やかに過ごしました。
 春が過ぎ、熊本藩儒・高本紫溟(李順)の菊舎宛書簡(4月3日付)を持って、上京途次の田能村竹田(28歳)が長府の菊舎(53歳)を訪ねて来ました。画にも才があり、風流の士でもあった竹田は、菊舎に対面したいと紫溟に紹介状を書いてもらってやって来たのですが、果たして両者が会えたどうかは疑問です。菊舎は鶯のなくころには萩に滞在していますので、もはや、出立したあとではなかったかと想像します。この時の高本紫溟の書簡には、菊舎が漢詩の手ほどきをうけていたこと、また、当時の幅広い文雅の交わりなどが記されていて、大変興味深いものです。
高本紫溟 書簡(部分)
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新菊舎慕情 64
   高麗も一目に涼し思君亭      『手折菊』
 文化2年(1805)夏、萩の黄檗宗東光寺15代祇樹亭大愚和尚を訪ねました。その頃の東光寺は30棟の建物がある大伽藍でした。庫裡裏の小高い場所にあった思君亭という茶室は、明治の寺禄廃止で解体され現存していませんが、日本海を一望に収められるみはらしのよい場所であったようです。思君亭は、東光寺を創建した萩藩三代藩主毛利吉就公の位牌所遥拝所の建物であったともいわれていますが、ここで、菊舎と大愚和尚は詩の贈答をし、お茶を楽しみました。その後、藩医、栗山幸庵(孝庵とも書く)の春水亭で七弦琴を弾じたり、藩校の明倫館に行き、聖壇に漢詩や発句を献じ、また、猗蘭操(いらんそう)という曲も弾琴しました。当時、堀内にあった明倫館の聖廟は、のちに海潮寺(北古萩)の本堂になりました。菊舎53歳の今回の萩滞在は、夏から秋にかけてでしたが、この間、琴筵・茶席・風雅の遊興に明け暮れたと、知人あての書簡に記しています。
護国山東光寺境内之図
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新菊舎慕情 65
   往て来ふか鶴に紛れて雪千里
  翅打て此栄見せむ雪の雲
 
         『手折菊』
 紅葉のころ、長府に帰ってきた菊舎は、藩主毛利元義公(21歳)より中国の琴士が着る鶴氅裘(かくしょうきゅう)(鶴の羽で作った袖なし)を拝領しました。七弦琴をこよなく愛しいつも携えていた彼女ですから、藩主の心遣いが、よほど身にしみて嬉しかったのでしょう。それを筑前の諸先生に見せたくなり、九州へとにわかに旅立ちます。
 そして、亀井南冥やその弟の曇栄(幻庵)らを訪ねます。曇栄は京大徳寺で修行後、博多の崇福寺に入っていましたが、兄の南冥が「寛政異学の禁」により処分を受けたと同時に隠居を命じられ、太宰府に移住していたようです。12月下旬、長府に帰る菊舎に、送別の漢詩 四首を贈りました。文化3年 (1806)の正月は、帰郷途次の篠栗金出の群島氏宅で迎え、1月15日、両親の待つ長府に帰郷しました。このころ届いた熊本の村井琴山の手紙によれば、浦上玉堂が近隣の寺へ滞留し、菊舎のことを噂しながら七弦琴を弾いていると記しています。文人画家の玉堂も菊舎にたいへん興味をもっていたことがわかるとともに、当時の文化のネットワークの広さに驚くばかりです。
かはらじや幾世重ねし毛衣は 菊舎
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新菊舎慕情 66
   いとゆふや我も一すじ道の恩          『道の花集』
 文化三年、菊舎五十四歳の三月、京都永観堂で、芭蕉以下美濃派道統六師の建碑式に出席しようと藩主に挨拶して、とる物もとりあえず京へ旅立ちます。
 七世白寿坊道元の発案で、のちに八世となる岡崎風廬坊が、諸国を行脚して寄付を集めて建った句碑です。 江戸の白寿坊からの誘いの手紙に応えての、彼女の上京でした。
六師の碑面の遺吟は

 古池や蛙飛び込む水の音      第一世 松尾芭蕉翁
 牛(しか)る声に鴫たつゆうべ哉      第二世 各務 支考
 住倦(すみあ)いた世とはうそなり月と花     第三世 仙石廬元坊
 あふむいて分別はなしけふの月    第四世 田中五竹坊
 つつたつて杉こころなしけさの雪    第五世 安田以哉坊
 くもるほどによい空奪ふ桜かな     第六世 大野是什坊

で、当時の様子が「道の花集」に詳しくあり、拝章百韻の中、菊舎の前掲の句が記されています。現在、永観堂には、その後の道統たちの碑が、次々に建て添えられています。いとゆふは陽炎(かげろう)のことで、春の季語です。
永観堂にある美濃派道統句碑姿図   獅子門出版『黄山』より
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新菊舎慕情 67
   けつく空の広ふ見へたり朧月          『手折菊
 永観堂で再会した白寿坊や風廬坊ほか八名の美濃派連衆と菊舎は、京鴨川のほとりの有時庵此由(周防三田尻中濱の塩田主 田中彦七)の寓居に招かれ、朧夜の雅会に加わりました。
 望の月影は東山にかかり千金の眺めのもと、江戸・山形・美濃・九州などのそうそうたる俳人のなか、菊舎は萩の素信尼と同座しています。このとき詠んだのが冒頭句ですが、 『手折菊』に所収されているものの、作成年次は不明でした。
 数年前、蕨市の岡田家俳諧史料の「刷物」の一枚から上記のことが判明しました。また、この席で有時庵は「防府天満宮境内に芭蕉句碑が造立成就されたので、翁塚集を上梓したい。就いては諸邦の雅君の名録を申受けたいので、遅れないよう京橘店に差し向けてくださるようお願いしたい」と宗匠白寿坊に頼んでいます。
 天満宮境内の芭蕉句碑の揮ごうをしてくれた宗匠へのお礼と上梓窺いの含まれた招きの雅宴であったかもしれませんが、菊舎たちは鴨川の春の一夜を十分に堪能したにちがいありません。

芭蕉句碑「古池や蛙飛込む水の音
―防府天満宮境内―

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新菊舎慕情 68
   老に恥ずわたる小河の波すゞし          『手折菊
 初夏のころ、菊舎は公卿で文章博士の清岡長親(菅原氏五条庶流六代)に連れられ、文人石川丈山が開園した詩仙堂に詣でます。ここには琴士が一度は弾いてみたいと夢見る丈山遺愛の陳眉公琴という珍宝の七弦琴がありました。長年の願いが叶い名琴を弾奏できた菊舎の喜びは如何ばかりであったでしょう。
 先年、筆者が詩仙堂を訪れた折、かの名琴を一目見たいと思い尋ねましたが「丈山の誕生日だけに展示します」との返事で拝見は出来ませんでした。しかし、のちに菊舎がとりもつ縁でお会いした中国の琴士姚公白氏が、詩仙堂のこの琴の素晴らしさを絶賛されていて、氏の手で再び中国伝来の陳眉公琴の音色がよみがえったことに感動を覚えました。菊舎が冒頭句を詠んだ詩仙堂は、彼女にとっても数々の親切を受けた忘れがたい場所であったのです。
 5月2日には「雲客(殿上人)数多に陪し奉り、蝉の小川に琴を弾き、南風の曲をつかうまつりし・・」と、下鴨神社糺の森での優雅な催しに加わった菊舎ですが、持病が出たのか、父の容体が気になり始めたのか、伊勢・美濃・近江方面に行く予定を俄かにとりやめ帰郷をします。
詩仙堂(京都市左京区一乗寺門口町)
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新菊舎慕情 69
   せきくだす薬はないか天の河          『手折菊
 文化4年(1807)7月11日、菊舎の父了左が85歳で亡くなります。
去年より行雲の遊びをやめ、父母と一つ筵に起臥て・・」(手折菊)と書いていますように、ひたすら看病にあたっていた菊舎です。七夕の夜、せきこんで苦しんでいる父の姿を見かねて、天の河に思わず呟いた彼女の悲痛な一句といえるでしょう。田上家の家督を嫡男に譲った後は本庄了左と名を変え、藩主の御側医となった父、行脚の娘を案じて「早く帰っておいで・・」と手紙をよこしてくれた父のことを思い、万感胸にこみあげてくる菊舎であったにちがいありません。
    ちりし人は今朝を限の朝顔か
    身ひとつの秋かとぞ思ふ秋の暮
 この年9月21日、生誕地田耕の妙久寺に着いた菊舎は、父の法事と報恩講の法要をつとめました。それから、近隣のお寺を訪ねては旧交をあたため、神田の竹田峯秋(酒屋・九兵衛)宅で新しい年を迎えます。正月は釜をかけて茶などを楽しみますが、中旬から大患いをしたいそう難儀をしました。
 
 大ぶくや浮べて梅の花ひとつ
 「大ぶくや」句自画賛 鐶と羽箒図 
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新菊舎慕情 70
   われたりなあゝ惜むべし薄氷          『空月庵むだ袋
 文化5年、菊舎56歳の10月8日から27日までの20日間、下関の本陣伊藤家の持仏堂空月庵を借り、炉開きの茶会を開きます。
 空月庵は『山口県寺院沿革誌』には大乗寺末寺と記載されていますが、それはともかく、本尊は弥陀如来でした。開炉日には、一の宮 (住吉神社)二の宮(忌宮神社)松崎八幡神官たちを招いたのをはじめ、期間中、多くの雅客を迎え大盛況でした。
 その様子がいきいきと記された『空月庵むだ袋』は発句・和歌・漢詩・水墨画がちりばめられ風韻に富むすばらしい帳です。これは茶会終了後、お礼として当主杢之丞盛永に贈られました。掲句は、客人たちもほめ菊舎自身も気にいっていた手作りの干満の茶碗を、そ相して割らしたとき、「情あるものは必めつす。情なきも亦めつすとかや。おもふに天性此茶碗大福の晴にも逢はずして、果報つたなき一期といふべし」と書いて詠んだ一句です。関門海峡を行きかう舟を眺め、波音を聞きながら風雅な世界に浸りきった、至福な一大茶会でした。
 現在、その跡地は伊藤家の墓地となり、入り口に、「空月庵址」と傾いた小さな石塚が残るばかりであります。
 
「空月庵址」碑  (下関市本町1丁目)
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新菊舎慕情 71
   山鳥のほろゝ身にしむ小春かな          『手折菊
 菊舎57歳、「文化六のとし如月の頃ほひ、我旧里田耕(たすき)むらなる妙久寺に、宗祖の御忌経営有て・・余も其筵に捧げものして、(いささか)報恩のはしにもとおもふ・・」として、雲客(うんかく)方に四君子(しくんし)の画賛を進呈し、婚家本家筋の村田儀兵衛(19歳)に桃葉(とうよう)の雅名を贈りました。のちに菊舎の文台を継承し一字庵二世となった人物です。九月には、妙久寺八世住職義観(俳号松風)の悔みに訪れ、追悼の俳諧をしている書付が今も寺に現存しています。
 初冬、月山(豊浦郡西市、華山(げざん))に登った彼女は、芭蕉の父はゝのしきりに恋し雉子の声の句碑を拝し、急にふるさとの母を思い出し詠んだのが冒頭句です。菊舎のこの句碑は、昭和五十五年豊田町神上寺に、今は亡き山口獅子林第七世岡崎愛土宗匠の手によって建立されました。
 
下関市豊田町 神上寺 菊舎句碑
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新菊舎慕情 72
   姿すゞし昔を今に玉かしは
 文化6年の年末から文化8年の2月まで、菊舎は萩に滞在します。この間、八江萩八景護国山十二景(詩・句・画)の一集や、手造りの萩焼茶碗に冒頭の発句を書き込んだりして、風雅な世界に遊んでいます。三輪窯と想像されていますが、この時、菊舎は幾つかの抹茶茶碗を造ったようで、後に和歌の師匠である難波の川井江隠にも手造りの萩焼き茶碗を進呈しています。
 萩逗留中の7月22日には、悲しい訃報にも接しました。親交のあった萩7代藩主毛利重就の側室武藤留楚(長府十代藩主毛利匡芳の生母・元義の祖母)が亡くなったのです。これまで何度か河添の別邸を訪れては俳諧をともにし、ひそかに水交の雅号をもさし上げていた菊舎は、悲嘆の涙にくれました。そして、文化8年正月は逍遥館荷風・風竹園桂露邸にて迎え、還暦祝いに富士山を試筆し知友に配りました。また、長府の母(81歳)から手織の衣が届き「汝雲水の旅に有とも、をふなの素を忘るゝ事なかれ」という諭しの文が添えられていて、いつもながらの細やかな母の心遣いに胸を詰まらせる菊舎でした。
 
萩焼茶碗
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新菊舎慕情 73
   酌み初る時や霞の海静か       『鶯の舎』
 菊舎は母の八十賀の祝いのために、文化8年(1811)2月3日、萩を発ち長府に向いました。この道中、厚狭鴨橋東の枝村屋を初めて訪れます。ここは枕流亭とも呼ばれ、代々庄屋や市年寄をつとめる富豪で、酒造業を営んでいました。文禄の役の際、休憩した豊臣秀吉が命名した「霞の海」という銘酒があり、主人はその銘酒を菊舎に勧めました。それが前掲句です。いったんは親の許に帰った菊舎ですが、親鸞聖人五百五十回忌法要に参拝するため、すぐに京都に向けて長府を出立します。そして又、厚狭の枝村屋に再遊し、三田尻へと赴きました。この地では、京都東山での別れから、五年ぶりの塩田主の有時庵此由を訪ねて旧交をあたため、数日間滞留しています。そして、3月4日、有時庵夫婦に見送られ花の浦の港へと出立いたしました。その折、有時庵婦人・菊始は
惜しき客雛とともにいなせけり 
と別れを惜しみました。そのことに触れた有時庵此由の句入り文が、我が家に残されています。
 
枕流亭枝村屋
―山陽小野田市厚狭―
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新菊舎慕情 74
   かかる時や一天四海花の雲       『手折菊』
 3月13日大坂に着いた菊舎は、17日には親鸞聖人五百五十回忌法要が勤まる京都西本願寺に参拝しました。宗風の隆昌なることをことほぎ、前掲句を詠みました。その後、体調をくずして東洞院錦小路北の名医竹中文輔の診察を受けます。「長々湯薬の恵みに預り、猶又訪らふ度毎に、茶室に一椀の清味をもてなされ」と記しているように、茶事をはじめ、画や詩文をもよくする文輔は、菊舎をたいへん庇護した医者でした。4月、大坂へ下った菊舎の体調は、その後どうであったか、これまで不明でしたが、つい先日見つかった西市(下関市豊田町)の脇本陣藤田良助宛書状に、御遠忌参拝後「浪華に下り夏中持病になやみ・・」とあり、大坂滞在中も菊舎が喘息に苦しんでいたことが判りました。しかし、この間にも天満の大鏡寺へ弟の盆供養にと、50枚の水墨画を寄進しています。漸く京へ戻ったのは8月18日の居待月でしたが、また数日後には寝込み、菊舎59歳の夏と秋は、病みがちで難儀をしたようです。
 
親鸞聖人六百五十回忌法要
明治44年(1911)-京都西本願寺-
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新菊舎慕情 75
   染る秋やゆかりいろいろ紫野       『手折菊』
 秋の深まりとともに菊舎の体調も回復したのか、公家の楽只菅公(清岡長親)や琴仙公(平松時章)らを訪ねては交遊し、紫野の名刹大徳寺では、茶宴や雅会を催しています。毛利藩ゆかりの寺である黄梅院に詣でた菊舎は、庭の見事な紅葉を愛でつつも、その藩士の娘として、さまざまなご縁をしのびながら前掲句を詠みました。また、10月1日には、大徳寺の茶室空華室を借り、庭田権大納言をはじめ親交の諸君子を招き、頭陀袋に携えている茶器を用いて、炉開きの茶会を催します。
 「一樹一河の縁に随ひ 破衲破鞋に跡をさだめず風花雪月たのしからぬ事なし 今よはひ耳順に近づきぬれば 自らいはひてといふもかたはらいたけれど 親しく交り奉る諸君子に一椀の清茶をまいらせて 金玉をこひまつらんとおもひ侍れど  年ごろ雲水に身をまかせ果て さる筵もあらざれば 其折々その所々にものして頭陀に入たる茶器に 例の琴を携へてむかへまいらせん・・
とあり、文人尼としての菊舎の姿が、目の前にありありと現れてきます。
 
大徳寺 (京都市北区紫野)
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新菊舎慕情 76
   薫る風や諸越かけて七の緒に       『手折菊』
 文化9年(1812) 、のどかな都の春を迎えた菊舎は、60歳の自祝記念に、これまでの行脚をまとめた俳諧紀行文『手折菊』の発刊を思い立ち、夏には京寺町二条の橘屋治兵衛より刊行します。この作品は花・鳥・風・月の四巻からなり、花の巻は33歳までの行脚記録、鳥の巻は東海道53次の句画集、風の巻・月の巻は文・俳諧・和歌・漢詩などを納めていますが、その最後尾を飾っているのは、奈良法隆寺で33年に一度という御開帳にあって、中国伝来の開元琴を弾奏した4月8日の出来事です。かねてより目にしたいと思っていた名琴を
・・予に一弾することをゆるし玉ふ。予は余りの冥加にめでて、すなはち、 太子の尊像の前にいたり、南薫操一曲を弾奏す。実にや数千年来の古楽器、開元の遺響 絃上に備り、難有さいはむかたなし
噂どおりの七弦琴の音色に酔いしれた菊舎は
 異国(ことくに)のしらべに掛ていかるがの
 宮のまつかぜ吹つたふらむ

などの和歌や漢詩をもって、『手折菊』を大尾としました。
 
菊舎の弾いた開元琴 (開元12年の銘入り)
現在は東京国立博物館所蔵
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新菊舎慕情 77
   こちからもかへり見申もみぢかな       『都の不二』
 菊舎59歳の春から、61歳の夏まで京・大坂に滞留しますが、その間のエネルギッシュな行動には圧倒されます。しかし、その裏には、絶えず死を覚悟していたことが窺われる「往来書添」がのこっています。
乾坤無住独歩の行脚、何国似ても身終り申候時は、往来本文之通御取計ひ奉頼候。ただし相携処の七絃琴は・・
と、その送り先を指定した遺言書を頭陀袋に入れて旅をしていたのです。
とはいえ、『手折菊』を上梓したのちも、七夕は平松琴仙公御宴へ、仲秋の月見は楽只管公邸へ、重陽の佳節は西徳寺にて祝うというように風雅の宴に招かれどおしでした。また、大原の古知谷や寂光院、伏見常福寺にも参詣し、永観堂では前掲句を詠みます。
この頃、美濃派俳人の枠を完全に超えてしまった菊舎に対し、美濃派以哉派九世山本友左坊は
・・世上にて名高き御人御休俳にては、何となく道の衰えと似て風評も不宜・・
と、俳諧に精を出すよう苦言を呈しています。
 
「往来書添」
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新菊舎慕情 78
   長門がた琴江の沖の島のりを
    かきつつをくるあまの袖づと
       『都の玉ぎぬ』
 文化10年(1813)6月中旬、長府に戻った菊舎は、京で刊行した『手折菊』をゆかりの寺々へ寄進します。寺外に散出しないようにと希いつつ、田耕の覚天寺へは祖父の50回忌、長府の本覚寺へは父の7回忌の手向けとして、『手折菊』を届けました。
   そだてくれし親の手がらや手折菊
 9月には亀山社宮で観月の能を見物し、10月14日の誕生日には耳順の祝筵がもたれて、たくさんの贈り物に囲まれました。
 年末、菊舎は世話になった浪華の雅友に、角島の島のりと壇ノ浦の汐干飴をお歳暮に贈ります。それに冒頭の一首を添えていますが、琴江の沖の島とは、現在、特牛(こっとい)の沖の島、つまり豊北町角島のことです。
 明けて文化11年、家族と久しぶりに故郷で正月を過ごしますが、 萩の竹奥舎其音から「ぜひ萩へ」という手紙が届き、2月には萩に出向きました。しかし、3月には浪華に向かうため萩を出立。83歳の其音は菊舎との別れを惜しみ、「足元の雉子立つ旅のわかれかな」と餞別句を詠みました。
 この間、生誕地では親交のあった竹田峯秋や蒲生鳳林が、福岡では亀井南冥が亡くなりました。
 
田上家菩提寺 本覚寺
―長府中之町―
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新菊舎慕情 79
   花の骨も犬さへ喰ぬ枯野かな       『都の玉ぎぬ』
 一年も経ぬ間に再び浪華に戻った菊舎は、その後京都に移り、西本願寺前の光隆寺を宿とします。しかし、死を覚悟するほど体調は悪く、頭陀袋には「病気等の節は当寺迄御送り遣可被下候也」という覚書を入れて歩いていました。現在、光隆寺は西本願寺の裏側に移転していますが、建物は菊舎の当時のままのようで懐かしく、今にも菊舎がふっと現れてくるような感じさえします。
 文化12年(1815)元旦、本願寺に参拝した菊舎は七弦琴を弾き、お茶を楽しみ、各所へ年賀に出向き、63歳の正月を過ごしますが、その頃の「髑髏図に題す」とした作品に、冒頭の句をのこしています。これは、「小野小町九相図」絵巻を踏まえていることはいうまでもありませんが、その「我死なば焼くな埋むな野に捨てて、痩せたる犬の腹を肥やせよ」の歌に対して、「犬も食わない」とした菊舎でした。
 
「花の骨も」句自画賛 どくろ図
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新菊舎慕情 80
   浮舟や我は西瓜とうきごゝろ       『都のしらべ』
 この年、六十三歳の菊舎は、北野聖廟、永観堂、清水寺、知恩院、大徳寺黄梅院など、京の名所旧跡を次々と巡り、たくさんの俳句や和歌を詠んでいます。6月7日、祇園祭を見物し、午後から伏見に滞留中の長府藩主毛利元義の許を訪れ再会をよろこびあいました。
 祭り見た身を其儘の見(ま)みえ哉
翌朝、藩主を舟着場まで見送った菊舎は、その後、黄檗山の慈福院に投宿します。ここでは折よく土用の虫干しに遇い、萬福寺の古画墨跡をことごとく見ることができ大いに喜びました。また、宇治では、宇治十帖の古跡見物をし、宇治橋より西瓜を運ぶ小舟に乗せてもらいます。このとき、『源氏物語』の宇治十帖のヒロイン浮舟を思い浮かべながら詠んだのが冒頭句です。二人の男性の間を揺れ動き、宇治川に入水しようとして、ついには尼となった浮舟に対し、西瓜にはさまれて小舟にちょこんと座っている色黒の尼菊舎。両者の姿と心の内を想像するだけでも楽しく愉快な宇治川の一句です。
 
宇治橋
(大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる日本最古級の橋)
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新菊舎慕情 81
   こゝろ遊べ天涯比隣冬籠
 文化13年7月9日、菊舎の母タカが84歳でなくなります。それを漏れ聞いた大坂の歌仙堂(かせんどう)肖翁(しょうおう)(和歌の師)は、菊舎に宛てた悔やみの手紙に
永々御他国 御帰郷の上にて、此上なく存じまいらせ候」と、旅を日常としていた菊舎が、故郷で母の最期を看取ることが出来て安堵したと書いています。母が亡くなりしばらく病床にあった菊舎は、四十九日も過ぎた頃、また、旅に出ようとしました。傍目にも体力の衰えがみえる64歳の菊舎に、旅はもう止めるようにと客人が来て、「天地是我蘆」と書いた紙を渡しました。
おのれが旅好を留むとて天地是我廬といふ文字をしめし玉ふ 即事に感伏して郷の一字庵に落着くつろぎて」と前書きして詠んだのが前掲句です。
この言葉を胸に刻んだ菊舎は遠出をやめ、もっぱら後進の指導に力を注いでゆくことになります。
 是も天地吾廬ぞ月の床柱    (65歳)
 くむやけふ天地我炉の福加減  (71歳)
 柊さゝず天地我廬の節分は    (72歳)
 
文化13年 書留
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新菊舎慕情 82
   蓬莱の巌によるや初茶湯
 文化14年(1817)正月に、菊舎が親戚の子ども達宛に出した回し文が筆者宅に残っています。

 五歳女  中川小鶴
 二客七歳女 椋梨嘉代
 三客七歳男 本庄一郎
 詰客九歳男 椋梨文太郎

    回文
明後五日石炉開きながら麁茶まいらせ度申上候
御揃被成無御障御入らせ待入申候 めで度
                  かしく
      初春三日  各様      一字庵


御筆 破弓 羽子 手まり 御携へ可被成候
 中立間の御気ばらしにて御座候
 破魔手まりふく引寄ん遊び初


 菊舎は折を見ては子ども達を招き、書画帳に俳句や画を書かせ、共に遊ぶことを楽しみにしていたようです。中でも中川小鶴は書が上手で菊舎自慢の女の子でした。茶会後小鶴と合作した作品「蓬莱」句亀図に書かれた「万寿」の小鶴の書は、五歳児の筆とは見えないほど見事です。しかし、惜しいことに小鶴は2年後の文政2年早春、7歳で亡くなりました。
 花にそゝぎ筆にむせぶや手向の日
小鶴1周忌によせた菊舎の追悼句です。
「蓬莱」句亀図 中川小鶴「万寿」 
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新菊舎慕情 83
   鏡へもうつして咲くや窓の梅  友左坊
  こころあてに遠山見出す霞かな  
乙悟
  夏きくやとはいへ花はかさねさき  
菊舎
文政4年(1821)5月、防長石行脚中の美濃派九世山本友左坊が、萩、西市を経て、田耕、神田、和久、附野、滝部を廻り、長府の菊舎を訪れました。冒頭の合作は、長府にて友左坊・乙悟(長府、一字庵二世池田喜兵衛)・菊舎の三人が、扇面に書いた珍しい作品です。
美濃派六・七・八・九世宗匠と親交のあった菊舎ですが、故郷長門に馴染みの深いのは友左坊で、矢玉の斎八幡宮に「神風や薫る恵の世に広く」の句を奉納し、田耕の芭蕉句碑「梅が香にのっと日の出る山路かな」の揮毫(きごう)もしています。
友左坊著『おゐのたび』※(岐阜県立図書館蔵)には、地方の俳人たちが美濃からの宗匠をあたたかくもてなしながら、盛んに俳諧興行をした様子が、詳細に記されています。
 ※『老の旅』、文政三年(1820)から四年にかけて防、長、石、三国行脚をした美濃派道統九世 山本友左坊の記録。
合作三人句 扇面
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新菊舎慕情 84
   切れてきれぬ血筋やのりのちから草  

  文政4年(1821)12月8日、豊浦御郡代役を勤めていた菊舎末弟の椋梨策冶が亡くなります。47歳でした。策冶は清陽とも言い、幼いころ椋梨家に養子に入り、不惑亭周古の俳号も持ち、住まいも近く頼りにしていた弟です。
 菊舎はかなしさに南無阿弥陀仏の六字を冠にして、
   ながき世の末はつもりてむつの花
などの、六つの花(名号(みょうごう)、季語雪)の六句を作り、
せめてはかかるくちすさびにも、只みほとけのちかごとをのみたのもしくおもほえ侍りて」と、冒頭句を詠みました。
幼くして亡くなった弟弁吉、二十一年前、大坂にて自害した弟多門次、そして今、策冶と三人の弟に先立たれた菊舎でした。
 ちから草は、別名相撲草・おひじわとも言い、根の張りが強く、引いてもなかなか抜けない秋の草です。
 弟周古(椋梨策冶・平清陽)の直筆短冊
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新菊舎慕情 85
   雲となる花の父母なり春の雨    『おゐのたび
 
   道に朽ぬ印ばかりぞ苔の花   菊舎
    花と残れる孝を積む塚     友左坊  

 文政5年(1822)2月29日、菊舎は父母よりの手紙を納めた文塚を、長府徳応寺に建立します。その碑面に冒頭句を自ら揮ごうして、裏には清人費晴湖(ひせいこ)の菊舎讃の詩文を刻み、「和漢文塚(わかんふみづか)」と呼びました。
この塚は、昭和28年10月、幼稚園建設の為、(くすのき)の側から本堂前の現在地に移転されました。
春の雨は、父母のように優しく地上のものを育みます。両親の慈愛のこもった文を埋める菊舎の姿とともに、彼女の大いなる宇宙観もしのばれる俳句です。
徳応寺に近い田上家旧宅の庭には、菊舎と見まがうような小さな石地蔵がぽつねんと残っていますが、旅中の菊舎の安全を願いつつ両親が手を合わせていた地蔵のように筆者には思えるのです。

 
 文塚(下関市長府金屋町 徳応寺)
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新菊舎慕情 86
   錦着るや一世の晴の月の笠   『山めぐり集』 『月の笠』

 父了左の17回忌を4月に引き上げ勤めた菊舎は、西市の酒造業で大庄屋 中野長嘯邸に向け出立しますが、歩行神とまで云われた彼女も高齢となり、小月から田部までは駕籠にのりました。風流人の片棒と道中付け合いを楽しみます。

  片棒と駕輿に聞日やほととぎす

長嘯の家族と旧交をあたためた菊舎は、それから長嘯の孫吟松と連立って萩へ行きました。5月には、楽しみにして居た芝居見物をしたものの、その後、萩で大(わずら)いをしました。それから後は、美濃や上方から誘いがあっても上京することが出来ませんでしたが、生誕地ふるさとへの思いは断ちがたく、文政7年9月15日、秋祭りの誘いを幸いに、長府の左流坊をお供に、菊舎は田耕を訪れます。

月を笠に着て遊ばゝや旅のそら」と、行脚の第一歩を踏み出した彼女が、四十数年の旅の締めくくりに感慨をこめて詠んだのが冒頭句です。

生まれ故郷の懐かしい人々へ、菊の自画賛を土産に携え、恋しさに胸ふるわせて帰ってくる菊舎の姿が目に浮かんでまいります。

  
作品から
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新菊舎慕情 87
  待受の品に秋から火燵かな   桃葉
  手廻し早く染る言の葉      一字庵        『山めぐり』

 田耕中河内の庄屋、蓁々園(しんしんえん)・村田桃葉(とうよう)(儀兵衛)宅に頭陀をおろした菊舎は、先ず互いの無事を喜びあいました。桃葉は菊舎婚家の本家の六代目当主で、一間に新たな炉を開き、彼女を手厚くもてなしました。庭の菊も香りを添え、詰め掛ける近郷の人々と連日のように俳諧を楽しみます。
  その間には、妹於トメの婚家先、深長山妙久寺へも行き歓待されます。この折、

 雨きのふ庵の出て行花野かな  梅門

という藩主毛利元義の短冊を「御筆 深長山へかたみの為に」と包紙に書き、寺に贈りました。その他にも数枚の短冊が寺に残っていますが、

観音丸の名にめでて乗船の夜取あへず
 先(まず)たのし大慈大悲の月の舟  菊舎

の一枚に、お念仏をよろこびながら融通無碍に生きた菊舎のこころがしのばれるのです。

   
雨きのふ庵の出て行花野かな 先(まず)たのし大慈大悲の月の舟
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新菊舎慕情 88
  かへり見るや浦島ならで氏祭り           『山めぐり』

 ふるさと田耕の秋祭りを幸いに、高齢をおして帰郷した菊舎は、お宮に参詣し、冒頭句を詠みます。このとき「郷(ごう)に題す」として、次の漢詩を残しています。

 舊物山川在     旧物 山川在り
 人間興又新     人間 興又新なり
 風松有清韻     風松 清韻有り
 相和入神心     相和して神心に入る
 

二十六歳の頃、田耕を離れた菊舎が、以後、幾たび生誕地に帰ってきたかは不明ですが、最後となるこの年の祭りは、殊のほか感慨深いものでした。
彼女の言葉を代弁すれば「浦島太郎ではありませんが、長い間、風雲の誘うがままに諸国を旅し、今懐かしい故郷に帰ってきました。ふるさとの山も川も子どもの頃のままですが、知らない人々が多くなりました。お宮の松に、爽やかな風が吹き尊いことです」 となるでしょうか。

 
かへり見るや 浦島ならで 氏祭り   七十二齢菊舎
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新菊舎慕情 89
  敷しのぶ秋や竹田の稲むしろ           『山めぐり』

 この句の前書きとして、稿本『山めぐり』では、
おのが生誕の地、今は民家の人住居しけるが、むかし替らぬ名のみに寄りて
とあり、中河内村田うもじ宛(注、うもじ・・女房詞で奥さま)書簡には、
我生誕の地名竹田といへるが、今民間の業(わざ)しけるを見て
と記しています。
 明和5年12月、菊舎16歳のとき、生家は他人に譲って一家は長府に移住していましたが、あまりの懐かしさに生家の前に佇んだのでしょう。
ときは秋、取入れたばかりの籾が、敷き詰められた筵に干されていました。
生誕地田耕に、最後の暇乞いにと来た72歳の菊舎の脳裏に、幼い日の思い出が、どっと湧き上がってきたことでしょう。万感胸に迫る彼女の一句であります。
平成4年夏、田上家の庭に、この句碑(故内山貞子先生揮毫)が建立されました。

 
田耕 秋景色
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新菊舎慕情 90
  故郷(ふるさと)や名もおもひ出す草の花

 田耕滞在中の菊舎のもとに、近郷の俳人たちが、連日のように押しかけ俳諧の指導を受けました。そんな或る日の通題(つうだい)に「草の花」が出され、各人が秋の野草を思い浮かべながら俳句を詠みました。冒頭句は、その折の菊舎の一句です。
先年、詩人の大岡信氏が、朝日新聞の「折々の(うた)」にこの句を紹介し、「久しぶりに故郷へ帰ったときの吟で、『名も』の『も』が実に効いている。二十四歳で夫と死別、出家して尼となるが、以来全面開花」と、菊舎を一級の女流文人と絶賛しておられます。
道端に咲く草の花に足を止め、幼い頃のあの人この人のことなどにも思いを馳せている彼女の姿が見えてきます。
この句碑は、昭和三十二年五月、福澄十郎(風浪子)氏の一字庵八世の継承を記念して、田耕小学校校庭に建立されました。田耕地区民あげて菊舎の顕彰と文化の向上を念じ、菊舎顕彰会がここに誕生したのです。

 
田耕小学校 句碑
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新菊舎慕情 91
  (みが)く玉やむかしながらの瀧の月

 文政七年(一八二四)九月二十五日、菊舎七十二歳、老いの杖をひき白瀧山に登ります。その頃、四恩(しおん)寺は山の中腹にあり、住持(じゅうじ)の月影禅師(()一)が、菊舎一行をあたたかく迎え、短歌行など催しました。
 そして、このあと興味をひくのが、禅宗の達磨(だるま)忌と、真宗の報恩講をあわせて勤めていることです。 四恩寺の開山敬道和尚が、以前から崇敬していた親鸞聖人の木像が、当時も安置されていたのです。そこで、宗派を超えた二つの法要を、月影禅師と菊舎が導師を交代して勤修(ごんしゅう)したというのです。なんとも、大らかでほほえましい光景ではありませんか。

 (ひか)れ登る他力は安し瀧の(つた)
 思ひ立つ日こそ達磨忌お取越

 明治五年、白瀧山四恩寺は、萩松本通心寺へ合寺され、親鸞聖人の木像も、同時に引越しされました。

 
『山めぐり』より白滝の自画賛
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新菊舎慕情 92
  勢ひも二見に高し松の月  一字庵
   仰ぐ千とせも幸ひの秋    桃葉

 これは、田耕中河内の蓁々(しんしん)園桃葉(えんとうよう)(村田儀兵衛)の文台(ぶんだい)開きに菊舎が贈った祝いの発句(ほっく)と、それを受けた桃葉の付句(つけく)です。
 菊舎はふるさとに風雅(ふうが)繁茂(はんも)せんことを願い、かねがね秘め置いていた二見形文台を桃葉に与え、一字庵二代目として披露したのです。近郷の連衆(れんじゅう)も祝いに駆けつけ、賑々(にぎにぎ)しく祝筵(しゅくえん)が開かれました。折から、風も止み雲も納まり、文台の月が席上を照らすと、描かれている扇面の梅も清らかな光を放ち、三十四歳の一字庵二世の誕生を寿(ことほ)ぐような秋の一日でありました。
 文台とは、俳席などで懐紙や短冊(たんざく)を載せる、高さ十センチ足らずの小さな机ですが、俳諧精神を象徴するものとして尊重されたのです。芭蕉使用の「二見文台」にならい、菊舎自らも裏書を添えた文台でしたが、残念なことに現存しておらず、今は一字庵八世の時代に新調されたものが伝わっています。

 

文台

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新菊舎慕情 93
  天が瀬の春を歳暮の若布(わかめ)(かな)  一字庵

 ―今年七十六なる漁翁、寒風はげしきに天ケ瀬に行、予が為にとて、和布(わかめ)をかりて をくり越せしを、よろこび謝して―
として冒頭句を詠んでいます。
菊舎はふるさと角島(つのしま)の海苔が大好物で、いろいろな人から、ちょくちょく海の幸を送ってもらっています。天ケ瀬の潮の香りを愛でつつも、冷たい海に漕ぎ出し若布を刈ってくれた老人に思いを()せ、その礼に

 ほどほどの身の働らきやみそさゞゐ

という俳句をつけて、到来の味噌を送ります。
 「あなたの刈られた若布は、殊のほか色香もよく、おいしゅうございました。しかし、七十六という高齢なのですから、仕事は程ほどになさいませ。
書画の礼にと、いただいた味噌があるので、あなたに送ります」

動きの敏捷な冬の鳥・みそさゞゐにこと寄せての、菊舎と老漁師との、心あたたまる歳暮のやりとりです。

 

角島

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新菊舎慕情 94
  長門がたことえの沖のしまのりを
    かきつゝおくる あまの袖つと     菊 舎
  音にきく琴江の沖の嶋のりを
    めぐみにし日のかげや芳ばし     此露甘

 京烏丸(からすま)蛸薬師(たこやくし)に、「此露甘(しろかん)」と呼ばれる雅友がいました。文化十年(1813)3月、岩清水八幡宮の臨時祭で、あこがれていた菊舎に出会った此露甘こと白粉屋甚兵衛は、彼女を家に連れ帰ります。以来、親しく交わり、長府の母親から送られてきたことえ(特牛)の沖(角島)の海苔を此露甘にお裾分けします。冒頭は、そのときに添えた菊舎の和歌と、その返礼に此露甘が詠んだ一首です。
 菊舎は、角島のまくろ海苔が好物だと、田耕大庭の専修寺宛の手紙に記しています。
また、当地で病床に伏せた折の手紙には、死ぬるなら、専修寺か滝部の安養寺かでと書いていることからも、両寺と菊舎との深い付き合いが偲ばれます。

 

岩清水八幡宮

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新菊舎慕情 95
     そゝぐ筆や雪の枕のみ流れに     菊 舎

 真宗の尼であった菊舎が、晩年に力を注いだのが、親鸞聖人誕生地の顕彰活動のお手伝いでした。宇治郡(うじのごおり)日野郷(ひののさと)は、聖人ご誕生の地で、産湯(うぶゆ)の井戸もありながら、ちゃんとした堂宇(どうう)のないことを聞いて心をうたれ、自分もなんとか力になりたいと思ったのです。そこで、堂宇建立資金の一しずくともなればと、七十一歳の十一月から一年半の間に、屏風(びょうぶ)六枚、書画六百余枚を描き、公家衆のいる都方へ送りました。
 雪ふる夜、石を枕にして休まれたという親鸞聖人のご苦労を偲びつつ、自らも「命毛のあらむ限り」という菊舎の一途な思いが、ひしひしと伝わってくる冒頭句です。
菊舎が亡くなって二年後の文政十一年、日野郷にお堂が建ち、その後、「産湯の井戸」のそばに
  宗祖生誕地流風無量水
      幾春も絶ぬ産湯の流れ

の菊舎句碑が建立されました。

 

菊舎句碑(京都市伏見区日野 誕生院)

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新菊舎慕情 96
     雨きのふ庵の出て行花野かな    梅門

 これは、長府藩主十一代毛利元義(号 梅門)が、旅立つ菊舎にあてて贈った餞別吟と思われます。「今朝は雨があがり、あなたは、いよいよ出立するか」ということを、殿様らしい風流な(はなむけ)として使いの者に持たせた一句でしょうか。
諸国を漫遊し、各地で当代の名流たちと交遊した菊舎でしたが、三十二歳も年下の藩主元義公とは、殊に気の置けない付き合いをしていたようです。
ある年の七夕前日、城を訪れた菊舎に「俳諧をしよう」と誘われます。元義は「この暑さでは風流どころではない。暫らく梅の門亭で待っていてくれ、おっつけ参る」と菊舎を待たせます。日も西に傾き、沐浴をしてさっぱりした元義が、これから付け合いを楽しもうと梅の門亭に行くと、菊舎の姿はなく、「小言を言って去った」と聞くのです。「ああ、残念遅れたり」と、翌朝、藩主は「再び仲直りの付け合いをしよう」と、菊舎に下記の和歌をしたため詫び状を書きます。

 ものいはぬ二つ星さへやくそくのたがはぬ今宵まして三つ星

   *三つ星は毛利家紋

 
長府藩主毛利元義(梅門)が菊舎に書いた詫び状(冒頭部分)
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新菊舎慕情 97
     しらべ清し古葉払ふて松の千世(ちよ)

 俳諧・書画・和歌・漢詩・茶の湯・七弦琴と諸芸に通じた菊舎でしたが、驚いたことに六十九歳のとき、鼓(つづみ)も習い始めました。
文政八年九月十三日、赤間関の亀山八幡宮の祭りに出かけ、神事能を見物し、乗船もしたりして祭りを堪能しました。

 山々も舟から奪ふ錦かな
 亀山の祭りや漁鼓もうち合せ

人々はその様子を、硯の海(関門海峡)の月にうかれ、筆の林に錦を染め、千変万化の遊びをする老尼を、菊舎の口癖のように、まさに天涯比隣と思いました。ある女子は、鼓をもてあそぶ折は、これを着なさいと衣を贈りました。それにしても、菊舎の遊び心は、晩年も衰えることなく、悠々自在であっぱれというほかありません。

 
亀山八幡宮(下関市)
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新菊舎慕情 98
     故郷(ふるさと)恋しむかしわすれぬ梅見月

 前掲句は、田耕妙久寺宛の手紙に添えられた一句で、晩年の作と思われます。人は老いると、無性に生まれ育った故郷を懐かしく思い出すものだそうですが、天下の菊舎も御多分に洩れず、望郷の想いは募るばかりであったものと想像されます。
七十四歳の文政九年の手紙に、「何分文字を忘れ候へば、(らち)明不申候」「・・余りあまり筆まはりかね・・」「何をして七十三つをくらしぬととへどこころにあとかたもなし」など書き残しております。諸芸に通じ、諸国に名を馳せた一級の女流文人田上菊舎にも、人生の終焉(しゅうえん)は着実に近づいていたのです。

  よしあしに渡り行世や無一物(むいちぶつ)
  流れ寄るものははづして柳かな


我が身をしっかりと見つめ、()し方をしみじみ振り返っている菊舎の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる俳句の数々です。

書留

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新菊舎慕情 99
     無量(むりょう)寿(じゅ)の宝の山や錦時(にしきどき)

 文政九年八月二十三日、一字庵田上菊舎は、長府印内の田上鉄平宅で、七十四年の生涯を閉じました。法名は、「一字庵菊舎釈妙意」。長府金屋町の徳応寺(浄土真宗、菊舎生前の信仰)に遺骨を納め、長府中之町の本覚寺(浄土宗、田上家菩提寺)に分骨をして、それぞれが墓所とされています。
絶対他力の教えをいただき、真宗の尼僧として諸国行脚に明け暮れた菊舎。
文人として生き、こころの宝物をたくさん得た菊舎の悦びにみちた辞世句です。
生誕二百六十年の今春、念願の『菊舎慕情』を、発刊いたしました。「雲遊の尼菊舎」が辿った全国各地の写真が、よりいっそう彼女の姿を彷彿とさせてくれるにちがいありません。

    

墓  徳応寺・本覚寺

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